適正な労働時間とは?

今日、下のツイートが話題になっていた。リツイート数も1万越え。

 

 

これについては、私も100%同意する。人間の集中力なんて、最長で1.5時間(=大学の授業時間)なんて言われるし、8時間も働いていたら、生産性落ちるのは当然だし、さらに残業なんてしていたら、1日のほとんどを仕事で終える生活になってしまう。

週5日勤務、1日8時間労働という、誰もが当たり前のこととして受け入れているルールは、なぜ存在するのだろうか?気になったので、簡単に調べてみた。

 

ことの発端は、18世紀半ば〜19世紀のイギリスで起こった産業革命にあるようだ。当時のイギリスでは、長時間働いた方が生産性が上がる(=アウトプットが増える)と考えられており、労働時間は1日あたり14時間〜18時間にも及んだそうな。

ところが、こんな長時間働かされた労働者は、次第に、生産性も落ち、健康問題やメンタル疾患で働けなっていった。そして、労働者が労働時間の短縮を訴える運動があちこちで起こるようになり、イギリス政府は1833年に、9歳未満の児童の労働を禁止し、9歳〜18歳未満の労働時間を週69時間に制限する「工場法」を制定した。その後、工場法は幾度かに分けて改正され、1874年に「全労働者の月曜日から金曜日までの労働時間は1日最大10時間」と定められた。

一方で、アメリカでも、ニューヨークやシカゴといった大都市で40万人近い労働者が8時間労働制を求める大規模なストライキを敢行されたりもした。こうした要求が出る中で、1919年に開催された国際労働機関の第一回総会で「1日8時間・週40時間」との労働制度が、国際的労働基準として定められた。

日本でも、1916年の工場法を経て、1947年に労働基準法が施行され、1日8時間労働が規定された。

 

こうやってみると、元々は遥かに劣悪な環境で働かされていた労働者が、やっとの事で勝ち取ったのが「1日8時間・週40時間」という労働時間の上限規制だったわけだ。

しかし、この「1日8時間・週40時間」といった労働制度が定められたのは、なんと今から約100年前の話であり、こんな古い制度が、2020年も間近に控えた現代においても未だに第一線で生き残っているのである。

しかも、1日8時間というのは、あくまでもmin労働時間であり、これを超えると残業代が支給されるというルールはあるものの、1日の労働時間を8時間より短くする(しても良い)という発想はそもそも存在しないのである。ゆえに、多くの会社では、最低労働時間なるものが規定されている。

あまりにも当たり前のこととして、社会に浸透してしまっているため、誰も疑問を感じずに、所与のものとして受け入れてしまっているが、冷静に考えると、この「1日8時間・週40時間」というルールには、何ら科学的根拠もなく、単に「むかしからそうしていたから」残っているだけのルールなのである。

 

折角、テクノロジーが進化し、家事も仕事も数十年前と比べれば、比較にならないほど効率化している。社会がこれほどまで変化したにもかかわらず、なぜ労働時間は数十年、いや100年もの間、何ら変化がないのか。どう考えてもおかしい。これまでの技術革新は、一体なんのためだったのか?

今の技術があれば、1日4時間労働であっても、数十年前の数日分の生産性があるのではないだろうか?

数十年前も、何の問題もなく世界は回っていた。今、私たちが1日4時間労働になったとしても、同じく世界は普通に回っていくだろう。それなのに、なぜ私たちは1日8時間以上も働かされているのだろうか?

結局、金の亡者たる資本家たちが、自分たちが稼ぎ続けるために、労働者を犠牲にし、搾取している構図は、産業革命直後のイギリスと何ら変わっていないのではないか?

 

今こそ、私たち労働者は、19世紀初頭のイギリスの労働者たちのように、労働時間の短縮を声高に要求すべきなのではないだろうか?

毎朝、通勤ラッシュで満員電車に乗って通勤し、心身ともに疲労困憊の状態で帰宅し、短い時間で、家事・子育てなどの雑務をこなし、睡眠時間を削っては再び朝の満員電車に乗るという、この生活は、本当に人間らしい生活と言えるのだろうか?

1日4時間労働ならば、朝10時に出社し、2時間働いて、昼食をとり、そこから2時間働いた後の15時に退社し、帰宅後は、家族との団欒、趣味の時間、勉強など自己投資の時間も十分に確保できる。

GDPなどの経済成長率は鈍化するかもしれない。一部の超金持ち(資本家)の儲けは減少するかもしれない。しかし、大多数の一般的な労働者にとっては、これ以上ない人間的な生活を送れるようになる。

 

適正労働時間は4時間かどうかは別にしろ、そろそろ労働時間の見直しに取り組む時期に来ているのではないだろうか。安倍さんも、働き方改革など主張するのであれば、こういうところに切り込んでもらいたいものだ。

なぜディズニーランドに行くとカップルは別れるのか問題

このテーマは、すでに語り尽くされており、面白みにかけるテーマかもしれない。ただ、私自身は、このテーマについて真面目に考えたこともなく(そもそもディズニーランドにあまり興味なし)、私なりに少し真剣に考察してみようと(ふと)思ったので、書いてみる。

まず、一般的には、どんな理由が挙げられているのかから、整理したい。テキトーに「ディズニーランド 別れる」とググってみると、185,000件の検索結果が出てくる。上位のページをさらっと見ていくと、以下のような理由が挙げられている。

1.移動・待ち時間が長い(→会話が持たない・疲れる)

2.お金がかかる(→金銭感覚の違いが出る)

3.人混みが苦手(→疲れる)

4.男の態度・発言で気分を害される

 

他にも、いろんな理由が出ていたが、これらに共通するのは、すべて「現実に直面」してしまうということだ。

カップルというものは、付き合いたてホヤホヤの頃は、お互いに夢の世界にいるわけで、相手の悪いところなんて見えないものだ。それが付き合っているうちに、嫌でも現実と向き合わざるを得なくなり、相手の嫌な部分も目につくようになる。また、嫌な部分だけでなく、価値観や考え、生活スタイルの違いなどにも直面することになる。多くのカップルは、この段階で、徐々に上手く行かなくなり、別れてしまう。なかなかステディができない人の中には、このステージで、いつも相手に「幻滅し、冷めてしまい、別れる」を繰り返している人も多い。

長く付き合っているカップル(もしくは夫婦)は、この現実に直面するという過程を経て、恋愛というステージから、愛情というステージへと移行していくものである。もちろん、愛情なく惰性で付き合い続けている残念なカップル・夫婦も世の中には多く存在するだが、これはまた別の機会に論じることとしたい。

 

話を戻して、長続きするカップルは、現実の嫌な部分を含めて、相手を理解し・尊重し・愛しているのである。一方、付き合いたてのカップル(厳密には、付き合いの長さより深さが重要だが)の場合、まだ現実に直視しておらず、お互い、夢の世界にいるような状態である。

この恋愛状態から現実のパートナーに移行していくプロセスは、少しずつ、時間をかけて行くことが重要である。鉄は熱いうちに打てというが、それは大きく状況を変えたい(変形させたい)場合の格言であり、恋愛関係では「鉄は熱いうちに打ち過ぎるな」と言い換えるべきだろう。要は、熱いうちに下手に打って形を変えてしまうと、熱が冷めてきた頃には、修復不能な状態になってしまう。ただ、熱いうちに何もしないというのも間違いであり、2人が目指すべき姿に向かって、少しずつ、熱が冷めて行くのに合わせて、あるべき形に変えて行くことが大事なのである。

さて、話が少々遠回りしてしまったが、なぜ、ディズニーランドに行くと別れるカップルが多いのか、の結論を書きたい。

まず、そもそもの話、多くのカップルは、現実に直面したところで上手く行かなくなるものである。ここを突破できた相手は、十分にパートナーに相応しい相手であり、逃すべきではない相手ではない。つまり、カップルとは、ディズニラーンドの存在とは関係なく、別れるために付き合うものである。

試しに、結婚している男女に、それまで付き合った相手の数を聞いてみると良い。平均すると、4〜5人はいるのではないか? それだけでなく、今の日本人は独身率も高まっているので、上手く行く相手を見つけられる確率なんて10人に1人いるかどうか、というレベルかもしれない。

そして、上手くいかなくなったカップルが別れる理由は、全て同じであり、互いに現実に直面してしまったことが原因である。価値観の違い、性格の不一致など、理由は様々だが、根本の原因は、理想と現実のギャップなのである。

そして、ディズニーランドという場所は、カップルが本来であれば、もっと先に直面するはずだった様々な現実に、たった1日の短い期間で直視せざるを得ない場所なのである。より厳密にいうと、ディズニーランドは、とりわけ女性に対してこの残酷な現実を直視させてしまう場所なのである。逆に、男性はディズニーランドに行ったからといって、女性ほどは現実に直面しない。それゆえに、ディズニーランドでのデートを経て、なぜか一方的に振られるという理不尽な思いをする男性は多いのである。もちろん、男性もディズニーランドで現実に直面する場面も多々あるのだが、それ以上に、女性の方がより強烈に嫌な現実を見させられることが多いのである。

こうしたことが起こる理由として、多くの女性は、ディズニーランドを半ば神聖化していることが挙げられる。つまり、「ディズニーランド」を現実とはもっとも遠い場所として捉えているのである。そのため、この神聖な場所に、自分が惚れた男性と一緒に訪れれば、どんなに素敵な体験になることだろうかと妄想してしまうのだ。一方で、男性の方は(大抵)ディズニーランドに思い入れはなく、相手が行きたがっているから付き合うだけである。この両者のギャップが冒頭に挙げた、様々な別れる理由につながっていくのである。

簡単に想像してみれば分かる。例えば、ふたりで人気アトラクションに乗ろうと並んだところ、3時間も待たされてしまったとする。最初のうちは、無理して会話していても、流石に(酒もなく)3時間ずっと話し続けるのはシンドイものだ。人間なのだから、当然、疲れてくる。次第に会話もネタも尽きてしまう。男性からしたら、乗りたくもないアトラクションに、こんなに長時間待たされて、疲労とイライラも募ってくる。ついつい、不平不満が口に出てしまったり、あからさまに詰まらなさそうな表情・態度が出てしまったりもする。

一方、女性からすると、この会話のない微妙な空気感が、当初、勝手に思い描いていた妄想とあまりにかけ離れすぎているために、横にいるこの男のせいで神聖なディズニーランドが詰まらない場所になってしまったのではないか、と間違った錯覚をする。さらに、男の退屈そうな顔や表情を見て、尚更不愉快な気持ちになり、ますます男に対する負の感情が湧き上がってしまう。付き合いも短いがゆえに、男を擁護しようという気持ちなど出るわけもなく、ただ一方的に嫌いになっていくのである。

こうして、ディズニーランドにさえ来なければ、少なくともあと3〜4ヶ月は続いたであろう2人の男女は敢なく別れることになってしまうのである。

如何でしたでしょうか? ここで述べたのは、私見にすぎず、大して深みのある内容でもなかったが、私から次のことを結論として伝えたい。

・付き合いの浅いカップルはディズニーランドに行くな。

・長く付き合っているカップルは、ご自由に。

・別れたい相手がいるのなら、ディズニーランドデートをオススメします(特に男性)